垂直都市に降る雨

東大院卒が綴る思索の影_記事の内容は全て個人の意見です。

意識は低く広く、流れるように:第三夜

私が何を考えて物事を見ているのかについて。2018年版続きです。

色んな事に同時並列で取り組んでいると「中途半端」になるのは実際問題として事実です。ですが、中途半端であることは実は何か一つの分野の事しか知らない事よりも遥かに強い事であると私は信じています。

今回はそんな「中途半端に生きること」の真髄についてです。

※もういい加減にしてくれ私の人生っていう感じで、ストレス性の逆流性食道炎の酷い奴という診断を下されました。ブラック労働環境に投げ込まれて身体も病むとはこれ如何に。このままでは文章を書くどころか生きる事すらままならないので、少し前に「頑張ってブログ投稿します!」とか抜かしておいてアレなんですけど、ブログ投稿もやっぱり無理のない範囲になると思います。

 

意識は「流れるように」、―型人材という奇天烈
世の中の企業の人事部では「T型人材」とか「Π型人材」とか「H型人材」とか「△(トライアングル)型人材」とか、わけのわからない人材区分が色々とあります。企業によってT型人材が欲しいとか△型人材が欲しいとか色々ある訳で、とりあえず一般的な解説としては、

T型人材:一つの専門分野を持ちつつも教養の範囲が広く、他の分野の人々と協調しつつ自分の良さを生かせる人材(そんな奴はいねぇ!)
Π型人材:二つの専門分野を持ち、その二つの分野の知識を連携させつつ仕事ができ、更に二つの専門を繋ぐにたる広い教養を持つ人材(そんな奴はいねぇ!)
H型人材:強い専門分野を一つ持っていながらコミュニケーション能力に長け他の分野の専門家とつながる事のできるイノベーション人材(そんな奴はいねぇ!)
△型人材:三つの専門分野を持っていて、幅広く様々な場面で第一線の活躍が期待できる人材(そんな奴はいねぇ!)

となります。もう噴飯もの以外の何物でもない感じがしますが、大学やら大学院を普通に卒業して普通に仕事してるだけの奴にこんな奴はいません。専門に必死に取り組めば教養には欠けてくるし、かといって教養の充実に時間を費やせば専門知識には乏しくなります。当たり前です。その両方に同時に取り組もうとすれば毎日勉強勉強また勉強の日々になってしまうわけで、壮絶な勉強好きでもない限りはこんなもんにはなれないのです。

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…私も流行りに乗って人材として何か提案する事があるとするならば、―(ダッシュ)型人材とかいう奇天烈極まりない知性の形を提案したいと思います。これはおよそ大半の非常に広い分野に対して教養レベル以上の半専門的知識を有していながら、メチャメチャ強い専門分野は持たず、広汎な知識をもって自らの思考能力とする事のできる人材です。

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―型人材は勉強によってなれるものとは言いにくく、複数の分野を渡り歩く経験によって成立するものであると私は思っています。勿論勉強は重要で、常に複数分野の書籍を開いて読み進めていく事は必須ですが、それと同時に実際に複数の環境で働き、複数の現場を経験し、複数の人々と話し合う事によってしか成立しないものです。自分の置かれた状況から知識を貪欲に発見し吸収してゆく能力、色々な人との対話の中から相手の言っていることを素直に受容するセンスも必要になります。
これは事実上「無理やり自分の意見を主張しまくって信念を貫き通す」という態度では達成できません。水が流れてゆくように状況に対応し、置かれた場所から次々に色々な所へと流れてゆくような意識の有り様が必要になります。

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世の中生きていれば自分とは全く相性が合わなくて険悪になってしまう人だっていますし、組織の中で理不尽極まりない仕打ちを受けてストレスでふさぎ込んでしまう事だって有るでしょう。そこで無理やり抵抗しまくって「俺は真面目に一直線に生きてくんだ!」とか言い出すと、人の心は容易く折れて精神病になります。
そんな無意味極まりない事をして身体や心を壊してしまうぐらいなら、水のように流出してしまうべきです。転職したっていいし、興味のある別分野に転業する事だってアリです。まあ準備時間が結構かかるとしても、何かのアイディアや問題意識を掘り起こすことで起業してしまうなんてのも十分に検討しうる手だと思います。こうして人がどんどん流出してゆく事でブラック企業は滅びてゆくし、労働市場そのものの健全化や経済の競争力強化につながって行く訳です。
「初志貫徹」なんて言葉は確かに尊敬すべきものではあるけど、もう既に時代遅れになってると私は思います。流れ流れながら色々な物を吸収して、水のように自分の色合いすらも変えてしまえる柔軟さこそが重要なんです。

 

また、そうして自分が流れてゆく事を許容する考え方は、物事を複数の視点から考える「複眼的思考」を養うのに大変役立ちます。
これは現代のネット社会にどっぷり浸かってると結構難しい事で、自分の信じる主張や自分の考えていることを補強する内容の意見ばかり読みふけってしまうという事がどうしても発生します。だから正直なところ、勉強しているだけでは自分の考えや意見というものは特定の方向に偏っていきます。
その偏りを自覚した上で何かの意見を主張するならばいいんですが、大半の場合これを自覚する事は普通に勉強しているだけでは非常に難しい事です。ネット上で特定の政治的主張に極端に意見が偏っている人は、その偏りを自覚できていないままに発言してしまっている場合がほとんどだと思います。そうしてその人の言葉を聞いた者がまた偏って行き…という無限連鎖が始まります。

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私は今現在Twitterではあまり活性化していないのですが、2011~2012年ぐらいには過激な反原発派や放射脳の人々と盛大に戦っていました。予め言っておくと私は「超長期廃炉・部分再稼働派」です。ただし即時全面脱原発派の主張や、また逆に全面再稼働派の意見にも一理あると考えています。だから原発という対象を考えた時、それぞれの立場の人々がどう考えて原発を見るだろうかという事を想像して考えるという事をよくやります。

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こう考えてゆくと、例えばどのような話題に対してもネット上の様々な主張を見ていく事でお互いに対立する複数の主張のカオスという状況を体系的に把握する事ができるようになります。現に私はTwitter上では企業主義的な右派アカウントから、強固な反ブラック企業アカウント、市民主義による統治を主張する左派アカウントまでを同時にフォローしています(※アベシネ!を連呼するだけの反安倍アカウントは流石にフォローしてません)。こうするとTwitter上で右派の論客と左派の論客が色々なテーマで論戦している様をそのまま観察する事ができます。どちらも深い知識を持っている人ですから、論戦の推移を読んでいるだけで「ほお、こんな考え方があるのか」と驚かされることが沢山あって楽しいです。

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このような複眼的思考・複眼的意見を持っていることで、メチャメチャな方向に偏る事なしに、複数の分野や知識を踏まえたうえで自分の意見を練ったり考えたりする事ができるようになったりします。この「偏りなく考えて、自分の意見の方向性をどちらに偏らせるか決定する」というのが割と色々な場合において結構重要で、これができる人の視野はその主張・信条に関係なくどんどん広がっていきます。

 

⇒最終夜は「私の想い」
To be continued...