垂直都市に降る雨

東大院卒が綴る思索の影_記事の内容は全て個人の意見です。

意識は低く広く、流れるように:最終夜

私が何を考えて物事を見ているのかについて。2018年版の最後の短文です。

 

私は最初から最後まで意識高い系が嫌いですが、と言いつつも色々な人から「いや、お前の意識は死ぬほど高い」とよく言われます。自分が嫌いな物に自分がなっているというのは実際物凄く不愉快な事です。
実際私は転落人生の果てに何を見出したのかという事を最終的な「想いとして短く書き綴っておくべきであろうと考えました。本当に意識が高い人と私の考え方にはどういう共通点があり、どういう違いがあるのでしょうか?

 

本物の意識高い系と比べて
本物の意識高い系というと誰なのかについては諸説ある事ですし、人によって答えが違っていい事だと思っています。
ここでは日本で最もポピュラーな意識高い系であるホリエモンこと堀江貴文さんの「やりたいことをしよう」という考え方と比較したいと思います。

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実は「やりたいことをやる」という側面においては私の主張する事とホリエモンの意見は変わりません。意見の骨格となっている部分はほぼ同等で、「やりたいことをやる」には全く賛同するところです。まあ私は臆病者なので、日本の意識高い系を代表するような人に正面切って反論できるような度胸も知性も持ち合わせません。
ちょっと違うかなと思うのは、多分この人は「意識が弱い人」の存在をあまり考えて無いんじゃないかという事です。世の中の大半は意識が弱い人で占められていて、大半の場合とりあえず一日三食食えていれば人生は問題ないのです。そういう人々に対して「やりたいことなんでもやってみよう!」とか「好きなことをしよう!」とか言っても、「じゃあちょっとこの前テレビでやってた美味しいラーメン屋さんに行ってみようか…」ぐらいで終了です。いや実際これで本当にラーメン屋に行く人ならまだ色々な事に取り組んでいける可能性はありますが、大半の場合「電車で一時間も掛かるのか」とか「車出すのダルイ」とか「お金がもったいない」とか言ってラーメン屋に行く事すらしません。そこで終了なんです。
私自身にもそういう事はあります。私は興味のある事であれば何でも取り組もうと思って生きてきましたが、しかし体力が無くなってしまって何もやれなくなることは多いです。普段だったら盛大にかぶりつくアニメ・ゲームや漫画に対しても「つかれた…あしたにしよ…」となる事はあります。だったらそれはもうその人にとって向いてないかというと、別にそういうわけじゃ有りません。例えホリエモンが如何にビジネスに向いているとしても、睡眠時間を確保できなきゃビジネスもできなくなるってだけの話です。

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つまり、普通の人にはある一定の「限界」があるんです。

 

「無我夢中で」取り組み、「寝食を忘れて没頭」して、「成長」していなければダメだなんてのは、私に言わせればそれ自体が決定的な思考停止であります。
もうちょっと考えてみてください。

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「働きながら」、「苦しみながら」、「何の才能も能力もない人が」、「モチベーションに溢れ返っているわけでもなく」、「ただ興味がある」というだけで、「その事を考えて」、そして「試しに取り組んでみる」事って、実はすごく偉大な事じゃないですか?

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「無我夢中で大好きな事に没頭してやろう!(ドヤァ)」とか「寝食も忘れて取り組んで成長しよう!(ドヤァ)」みたいな割と実現困難な目標を掲げて「皆も目標を掲げて行動しよう!」なんて訳の分からない事を言い出すよりも、「私には限界がある…できないことの方が多い」という事を明確に自覚して、意識低くそれを直視した上でじっくりと物事に取り組むことこそが物事に熟達してゆくための近道であると私は考えます。また同時に、そうして物事に取り組みながらもふと休憩を入れた時に、全く別の事を考えられるぐらいの余裕を持って意識を広くすること、そしてどうしようもなくクソな状況に追い込まれたとき、広い視野で見ていた何か別の場所へ流れてみること

f:id:weaverbird:20181014191146p:plainこれが2018年度現在の私が提唱する
「意識は低く広く流れるように」という生き方になります。


これは、何もかもを投げ捨てた者が「今」を見据えるための心の在り方です。
ここまで読んでくれたような人が居ましたら、ほんとうにありがとう。

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