垂直都市に降る雨

東大院卒が綴る思索の影_記事の内容は全て個人の意見です。

「普通じゃないこと」:思考技術とゆらぎモチーフ

世の中の人々は「人と違う事を考えるにはどうすればいいですか?」なんて意味不明極まりないテーマで悩んでいるとか言う話を聞くと、ちょっと笑ってしまいます。そもそもどうしてそんなに人と違う事の好むのでしょうね。今回は、私が私たる所以、私がキチガイだとか変人だとか言われ続ける所以について、とある同輩と語る中で再発見した事についてです。

 

そもそも「他人と違う存在でありたい」というのは人間が普遍的に持っている欲求であるといいます。電車で隣に座ってる誰かとは違う人生を生きてみたい、平々凡々なサラリーマンとして社会の歯車で一生を終えたくない、普通に結婚して普通の親になって普通の生活を送るだけでは物足りない、…みんなそれぞれに考えている事があるようです。
ここには決定的に「普通」というものに対する意識があるのだと思います。

 

「普通」

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少し前に「量産型女子大生」という問題提起がなされたのを覚えている人はいるでしょうか。上の写真が最も有名かなと思います。ほぼ全員がゆるふわ茶髪、全員判で押したような笑顔。

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これも凄いですね。全員が判を押したようなばっちり笑顔でばっちり同じ髪型でばっちり同じスーツで決めているのを見ると、何だか気が狂いそうな不気味画像に見えます。きっと全員口を開けば一言一句同じことを喋るのだと思います。
(思い返せば私は就活でもどこでも常にしかめっ面で物を語っていたので、専門的な話や深い話をすると「怖い人だ」という印象が強かったようです…だから就活も大失敗したのか)

言ってみればこれこそが日本人の「普通」というものに対する意識の表れだと思います。
皆とにかく「普通」でありたいのです。ここにおける「普通」とは言うまでもなく「社会に認められる確率が最も高い形態」の事を指し、日本社会にそぐわない様な外見・態度・意識・思想・意見は自分の中から一切を排除しまくって「日本的日本人」となる事を「普通」であると言うのです。

 

「日本的日本人」の終わり
ではそのまま普通の日本人として普通に生きて普通に死ねばいいじゃないですか。それの何が問題なのでしょうか?
普通の学生として適当に勉強をして適当に恋をして適当に友人を作って、普通の会社員として適当に仕事をして適当に人付き合いをして、普通の人間として適当に結婚して適当に子供を作って適当に子育てして適当に老後を過ごして適当に死ねばいいでしょう。
それの何が問題なんです?
…そう問われてマトモな答えを返せる奴に出会ったことがありません。基本的にみんな「普通でありたい」という欲求が基礎基本に有って、「普通ではなくなりたい」なんていう欲求を真剣な意味で打ち上げている人間なんて本当にごく少数です。だから基本的には、皆「普通」であればいいのです。「尖った人物」なんてもんになる必要はありません。特異な道に入る必要がある人なんてのは本質的に本当にごく少数なのです。

では、なぜそれでも普通ではない事を望もうとするのか?
恐らくそれは「日本的日本人」の未来には暗い将来しかない、という事に誰もがうすうす気づき始めているからです。日本的日本人の崩壊する例なんて今では幾らでも挙げられます。思いつく限り並べてみましょうか。

・T芝に入社した:
有名大学を卒業して意気揚々と入社した大企業は「チャレンジ」の名の下に無理な目標設定・それを粉飾で達成する体制で腐敗しきっていた。経営者は技術の事など知らない営業出身者で占められ、やがて東日本大震災が起きても止まる事のなかった原発事業がクラッシュしていった事で全てが大炎上し、崩壊の道へと至った。会社は粉々に解体され、「東芝」という大企業に入社したはずが今や何処とも知れぬ外資系メーカーの社員にされてしまい外資の経営体制の下で冷や飯を食わされる奴隷となってしまった。

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・Sャープに入社した:
有機ELよりも液晶だ!との大号令の下に全社一丸となって液晶の開発・拡販に挑むものの大転倒。日本国内に作った新型の大工場の稼働率も稼げないまま崩壊に一途をたどり、今や台湾企業の仲間入りしてしまって大々的に身を切る改革の中で次から次へと人が投げ捨てられる。

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・M菱電機に入社した:
過重労働のメチャクチャに横行するブラックな職場で毎日必死になって仕事を続け、いつのまにか自分は精神病を発症して毎日死にかけながら仕事をする日々に転落。転職する体力も気力も無くしてしまい、そのままある日電車へ飛び込んでデッドエンド。死体も粉々の無残な肉片に成り果てこの世を去る。

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意気揚々と大企業に入社して、大手を振って大企業の名刺を配って歩きながら真面目に仕事に人生を捧げていたような人々から順に壊され、殺されていくわけです。
それはとりもなおさず、「仕事以外に何一つとして何も見えていないから」であると私は思います。これまで散々「意識を広く持て」なんて言い続けている通り、仕事だけに集中して生きてゆく事は現代においてはほぼ自殺行為と同義です。会社の奴隷として死ぬまで過重労働に身を置いて、それで電車に飛び込んで死体も残らないような死に方がしたいなら「普通」でいいんです。日本的日本人としてバラバラ死体になってこの世から消えたいならばそれこそ称賛されるべき「日本的日本人」でしょうね。ただしそんな風に死んだ奴の事を誰かが思ってくれるわけではありません。自殺の一報が入ってから10分後ぐらいには皆通常業務に復帰するだけです。

f:id:weaverbird:20181125153531p:plainそんな風になってしまうのは嫌だと、誰もがやっと少しずつ気付き始めているんだと思います。私に言わせればそんなことに今更気づく時点で日本社会全体として遅すぎだと思いますが。

 

読書と共通知
恐らくそういうわけで、粉々バラバラの死体になりたくないから皆普通ではない道に少しずつ目を向け始めたのだと思います。誰しもが願望として抱えているにすぎなかった事に本気で目を向け始めた。そういう事じゃないでしょうか。ここから初めてその人なりの物事に対する洞察というものが始まっていくわけです。「普通じゃない何か」になって行きましょう。
そこで私がまず最初にキチガイじみた事を言っても仕方ないので、先ずは「普通の方法で普通じゃなくなる道筋」です。「何か知らない分野の教科書を一冊買って本気で読み込んでみろ」とまず言います。これは理系文系の別を問わず自分が興味のある分野の教科書なら何でもいいのです。そうして何かを学び理解してゆくという事は、それだけでどんどん普通からは遠ざかってゆく事につながります。

分野を挙げて例を示します。世の中の政治や国際関係、あるいは経済の動きに至るまで、ある種の物理学的法則に従っているという事は実はある程度教科書を見ていれば分かります。すると実は政治学部を卒業した人間であれば物理学に適性があるかもしれないし、逆に物理学科を卒業したなら政治経済に適性があるかもしれません。
このようにすることで例えば「物理法則的に政治経済の展開を観察する」といったような、ちょっと風変わりな視点を獲得する事ができます。これだけで普通の政治学部卒やら経済学部卒やらとは全く違った「共通知による解釈」という高度な理解が可能となり、その人の知性は普通の新卒のクソバカとは次元の違う所へ足を踏み入れる事ができます。

まあそんなレベルの高い事でなくとも、先ず本を日常的に読む癖を付けましょうよ。普通に日常的に本を読む事は、実は普通じゃなくなる為の一番の近道だったりします。
ここで読むのはビジネス書である必要は一切ないです。SFでもファンタジーでも恋愛小説でもなんでも、先ずは自分の好きな作家さんの作品は片っ端から全部読んで、そこから自分が好きになれる作家さんや作品をどんどん拡張していけば良いのです。
(※ただし新聞だけを毎日読んで満足しているようなのは読書ではなく頭の中が旧世代の価値観に傾いていくだけなので推奨しません。自己啓発本だけを無限に読んで満足しているような人も同じです)
フィクションなんか読んでなんになるんや!みたいな事を堂々言い出すクソッタレがたまにいますけど、それは絶望的にセンスが無いバカの戯言なので切って捨てましょう。

newspicks.com


世の中には読書の効果を神経科学的側面から検討したような研究もあって、曰く本を読むと場面ごとの情景や登場人物の行動を脳は模倣しようとするのだそうです。従って「読書する事で他人の人生を体験する事ができる」というのは単なる意識高い系スローガンではなく神経科学的に全く正しい事で、これによって人間の想像力と状況理解力は格段に跳ね上がります。具体的にいうと、フィクションを読んで見たことも聞いたことも無いような様々な物語とその情景を意識しながら読むことで、日常生活でも仕事でも今まで経験したことのない未知の物に出くわした時の理解力が大幅に跳ね上がります。
つまり本の中で読んだことと、実際に目の前に直面していることとが共通知となって頭の中に現れるようになるのです。

 

ゆらぎモチーフ思考
ここからが私がマジキチとか言われて軽蔑されるマジキチワールドの考え方になります。小さい頃から私が基礎技術として自然にやってきた事です。
人間の思考には常に一定の枠があります。それはその場の空気のようなものから、日本国の法律、組織のルールに至るまで、常に人間は何らかのガイドラインに従って行動し思考する事を是とするようにできています。だから、最初から完全ゼロベースの思考ができる人というのは社会の中に居られません。フーコーが論じた通りそういう人間は監獄の中に突っ込まれます。しかしまた一方で、社会は理不尽にも人間に「枠を外した視点・思考」を求めます。発想を転換し複数の視点から本質を探るなんて事を常に求めるわけです。
では、どうすれば犯罪者として逮捕されない範囲で思考の枠を外す事ができるのか?

f:id:weaverbird:20181125154515p:plain…変な事を、しよう。
事実上これに尽きます。これ以上の事をやろうとするとおよそ犯罪行為になります。
大それたことでなくていいので、先ずは自分が「これは変だ」と思う事を今この場でやってみたらいいんです。私はこれを「ゆらぎモチーフを思考に取り入れる」と言っています。
私は今これを書きながら笑顔で両手を上げてドヤ顔をしました。

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「私は何をしているんだろう…」という気持ちになりました。
それがとても大切な事です。こうして変な事をすると「これは変だ」という事が分かります。「自分が変な事をした」という事が分かると、普段の自分を振り返った時に幾つかの枠の中で生活しているという事に気づきます。例えば私は今こうしてキーボードをたたく事で日本語による文章を書いているわけで、キーボードから両手を放したら文章を書けないという事に突如気が付きます。「そんなん当たり前やろ…」と思われるかもしれませんが、実は人は往々にしてそんな当たり前のことにすら意識が回っていなかったりします。ランダムに揺らぐアイディア、モチーフを頭の中に敢えて取り入れてみる事で、これまで当たり前だと思って疑う事も無かった事が急に奇妙に見えてきます。

こうして「変なことをする」ことによって
「ごく当然のこと」に気付く事ができるんです。
あまりにも当たり前すぎて誰もが意識していない前提条件を認識する事で、初めてそれを疑う事ができます。

アホなゆらぎから始まる問題意識
そうやってクソみたいにどーでも良い事から問いが始まり、学びが始まります。現状を当然と思わず問題意識を持ったり疑ってかかる事によって物事は進歩して行くのです。
私は事実上この世の「アホなこと」は大体全てが何らかの問題意識へ昇華可能な事であると考えています。問いのきっかけは「何なんで?どうして?」でなくても良いんです。「クソだな」と思う事や「アホだろ」とため息をつく事が有れば、それは即座に何かの問題意識へと繋がりうる重要な不満であると言えます。
だからこそアホな事をしてみる、変な事をしてみることとは、その場で何かの問題意識を掘り出す上でとてつもなく有効です。これはコンピューターにはできない事であり、目の前の現実に対して訳の分からないアイディアを出すという事は人間のような複雑なネットワークを頭の中に持つ存在であるからこそ可能な事であり、論理的思考以外の所から何かを発想するためのシステムをフル活用するという事です。

普段からやっていたら明らかに頭のヤバい人ですけど、東大には普段から手足をバタバタ動かしてタコ踊りしてるような奇妙な先輩もいましたね(天才的に頭の切れる人でした)。まあハードルが高い事ではあるのであまり頻繁にはできないかもしれないですけど、たまにやってみると楽しいですよ。どうでしょうか。