垂直都市に降る雨

東大院卒が綴る思索の影_記事の内容は全て個人の意見です。

専門性の限界点

よくウチの大学の人は専門的になります。
と書くと最早何を言っているのか甚だ分からないですが、それ以外に言葉の書きようがありません。

世の中は「スペシャリスト」か「ネクシャリスト」のいずれかしか生き残っていけない世界になる、なんて言われています。スペシャリストというのはその名の通り、一つの分野を徹底的に掘り下げてその道の専門家として経験を積んでいる人の事です。対してネクシャリストとは、これは元々SF小説の用語なのですけれど、様々な分野について一定の知識を有する事で、スペシャリスト同士それぞれの専門分野の橋渡しをする人間の事を言うそうです。

いや、スペシャルである事は悪い事ではないし、それはそれで素晴らしい事なのですけど、果たして本当にスペシャルなだけで飯を食っていけるのでしょうか。
そういう事をよく考えます。

 

ある特定の分野で素晴らしい業績を上げている人が、常にその分野だけで人生を過ごしてきたのかと言うと、必ずしもそうではないという事はノーベル賞科学者を見ていても、芥川賞作家を見ていても感じる事です。

勿論一つの分野に魂を込めて日々鍛錬してゆく事はとても重要です。しかし私としては「専門バカ」の道には自ずから限界が出てきてしまうのではないかと危惧します。
その理由は二つあります。

  1. 一つのフレームワークだけで渡って行けるほど世の中は単純ではない
  2. 才能と実力の限界点という壁

最初の問題から行きましょう。
一つの分野で学べるフレームワークだけでは世の中を捉えきれません。化学物質についての知識がどれ程あった所で、イスラム国の素性やPAK-FAの構造的な空力特性については分かりません。同様に、アメリカの外交戦略についてどれ程理解があった所で、相対性理論を理解できるわけでもなくjavaでプログラムが作れるわけでもありません。
しかし実際に企業が求める人材はどのような人材でしょうか。それは高い汎用的技能を持ちながら、素早く企業特殊的技能を身に付けられる人物です。
より分かりやすい言葉で言えば、医学を修めて医師免許を持っているだけでなく、病院での手続きや事務処理に素早く慣れて的確に行動できる医者でなければならないという事です。

その為に最も必要なのは何でしょう。勿論最初に自分の専門分野の知識です。医師免許を持ってない奴が医者を名乗っていても誰も信頼する気にはなりませんね。では医師免許さえ持っていればそれで医者としてやっていけるでしょうか。そんな事は無いと思います。患者とのコミュニケーションからカルテの管理まで、医者には医学以外にもやらねばならない事が沢山あります。すると求められるのは医学の知識やフレームワークだけではありません。コミュニケーション能力も事務処理能力も必要です。
さて、それでは医学以外に何一つとして学んでこなかった人間は医者として役に立つでしょうか? 患者とロクに話もできず、カルテを紛失し・・・そんな医者が役に立つと考える人はいないでしょう。要はどれ程自分の専門分野の知識を深めて行ったとしても、必ず別の分野の能力や知識が要求される場面が来る、と言う事です。

自分の専門を深め続けてその分野で知らない事は無いぐらいにまで辿り着く事は素晴らしい事です。しかしそれだけではダメだと私は考えます。時には他の分野や他の知識体系に触れてみて、それから自分の分野を再度見直す事で、別のフレームワークによる新しい考え方の創出ができるようになれば儲けものです。そういう意味で私は「専門バカ」という言葉を礼賛する気にはならないのです。
(そのための方法として読書は至適なのですけどね)

 

さて次の問題です。
夢を追うだとか何かそういう意識高い系の話は脇に置いておいて、自分がある専門分野一本だけで食っていくという事を考えた時にどこまでやれるでしょうか。
例えばシリコンバレーには朝から晩までパソコンの前でプログラムを書き続けているようなプログラム大好き人間が山ほどいます。そういう人を相手にして「いや、俺はプログラム好きじゃないけど、努力で勝ちに行く」なんて言えますか。言えるとしたらそれはただのバカです。そんな事をして無駄な努力をして苦しむぐらいならば、次から次へと色々な分野でのトライアルを繰り返してみて、スペシャリストでなくともネクシャリストを目指せるだけの広い視野や教養を得るべきです。その中で互いに連関する知識体系や技術を見つけられれば、複数の分野の専門家の間を歩いて回って橋渡しをするような道が必ず見つかると思います。
こういう話をすると日本人は「戦う前から逃げるのか!」とか言い出すのですけど、そうではありません。自分の実力を正確に自己分析して、それに伴った最適戦略で人生を生きていくのが一番幸せな道だという事なのです。それは別に「逃げ」だったとしても最早全く問題ないです。
生きる事に集中して人生を歩もうと思えば、迂回可能な壁を無理して打ち破ろうとするような選択肢が、それこそ「愚か者の偶像」でしかない事にぐらい気付くはずです。