垂直都市に降る雨

東大院卒が綴る思索の影_記事の内容は全て個人の意見です。

善意の闘争

私は電車の車内で座席に座るのが嫌いです。
ずっと立っています。座席がガラガラに空いていたとしても、疲れている時や体力を温存したい時以外は座らないようにしています。そんなわけで、酷い不審者扱いを受ける事も多々あります。

確か小学生ぐらいのころは電車の車内ではちゃんと座っていたような気がするし、ひたすらに立ち尽くして外の景色を眺めたり本を読んだりするような奇妙な子供ではなかったはずです。

それが中学の修学旅行だったか、電車で座るのがとても怖くなりました。

 

電車の車内は「パブリックな空間」です。
そこには妊婦さんもいれば老人もいて、怪我してる人だって存在します。譲り合いの精神を持ちながら電車の車内で行動しましょう、と言われれば、それはとても合理的で、守るべき規律がそこに存在しているかのように思われます。

では「譲り合いの精神」とは何でしょうか?

少し考えてみましょう。
ある若者A君が席を老人Bさんに譲ります。Bさんは「ありがとう」と言って席に座ります。
はい、この時点でアウトです。
「譲り合い」とは即ちお互いが占有しているシートをお互いに対して譲渡し合う事で成立するはずです。従ってBさんは席に座ってはいけないのです。「いやいや、ここは君が座っていた席だから」とA君に座席を返さなければ「譲り合い」という言葉が成立しなくなります。A君はA君で、意地でもBさんに席に座ってもらわなければなりません。何故ならばもし自分が席に座ってしまったら、その瞬間に「譲り合いを途中で止めた愚かな若者」というレッテルを貼られてしまうからです。勿論Bさんも席には座れません。Bさんが席に座れば今度は「若者の席を奪う老害というレッテル貼りに遭います。

「いやいやご老人、無理をなさってはいけません。私は立っていても大丈夫だから、貴方が座ってください」
「いやいやいや君こそ、ここは元々君が座っていた座席だ。何、若い人が遠慮などすることは無い。君が座っていなさい」
「いやいやいや・・・」
「いやいやいやいや・・・」
永久にA君もBさんも席に座れません。席に座った方が「悪者」となってしまうためです。これを避けるためには、最初から最後まで席に座らない以外に方法がありません。

さて・・・何故このような事になるのでしょうか?
「譲り合い」という言葉を言葉通りに実行すると、結局誰も席に座れません。満員電車の車内でどうにかして相手を座席に座らせようとして、万人による万人のための「善意の闘争」が始まります。この枠組みの中では、座席に座ってしまった人間こそが悪であり、善性を維持しようとするならば意地でも相手を座席に押し込める以外にありません。電車を降りるまでの間「どうぞどうぞ」と言い続けなければ言葉通りにはなりません。

 

中学時代の事です。修学旅行の帰りだったと思いますが、私たちは学年全体でJRの車両を丸々三つ分ぐらい占領して、車内で大騒ぎしてしまいました。吊り革でターザンごっこし始めるバカが現れれば、車両のドアに体当たりを繰り返すアホが現れ、まさに車両の内部は阿鼻叫喚のクソ動物園と化しました。勿論中学生以外にも一般の乗客はいましたが、皆一様に肩身が狭そうでした。
「ああ、これは後でJR経由で学校に苦情が来て怒られるパターンだ」と思いながら私は延々座席に座らず、一人で車内に立ち尽くして友人と喋っていました。

案の定怒られます。学年集会で学年一怖い先生が学年全体に響き渡るような怒号を発して学年全員を叱ります。
「お前ら電車の中で遊びまわりやがって何考えてんだ!」
「周りの一般のお客さんの事考えてねぇのか!」

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ここで怒られた時から決定的に意味が分からなくなりました。電車の車内とはどういう空間なのでしょうか? 鉄道警察が毎日全ての車両を全ての時間チェックし続けて、完全で素晴らしい治安を維持するべきものなのでしょうか? それならば、何故世の中の電車の車内では痴漢が横行し、満員電車は改善される事が無いのですか?
勿論私たち中学生の山猿軍団が電車内で大暴れした事は紛れも無い真実です。しかし、それではこの大きな日本の複雑怪奇な鉄道網に巣食う犯罪者たちは、何故完全に取り締まられる事が無いのですか? もし私たち中学生が迷惑を掛けるから電車に乗ってはならないならば、何故犯罪者は電車に乗っても良いのですか?

もしかして、私が善意とやらを発揮して周囲のバカ共を殴り倒して制止すればよかったのですか?
電車の車内とは、そういう「善意を押し売りしなければならない空間」なのですか?

そこまで考えて疲れました。非常に気怠くなって、それから数か月の間電車を避けて行動していました。しかし流石に電車を使わないわけにはいかず、今では電車にも臆することなく乗っていますが、極力座席には座りたくないし、電車内で厄介事がおきないように毎回祈っています。
電車に乗った瞬間から「(乗車に関する)善意の闘争」に巻き込まれ、座席に座った瞬間から「(座席に関する)善意の闘争」に巻き込まれるのです。
もしも座席を譲るべき相手がいない時に席に座ってしまったら?
その瞬間に「譲り合いの精神を発揮できない」となり、「善意を持たない悪」であるとなります。その瞬間に倫理的にはゲームオーバーです。どれ程他の座席が空いていたとしても、座席を譲る事ができなくなった段階で論理的にはマナーを守らないクソ野郎だと解釈できます。だって実際に「譲っていない」し、「譲れない」のですから、客観的には「譲らない」のと区別がつきません。従って電車内で座席に座るという事は、私にとっては「あいつは悪だ」と見做される覚悟を持つ、と言う事に他なりません。

先日私は飲み会で勢い余って酔いつぶれてしまい、電車内で嘔吐してしまいました。
ビニール袋を構えていたので吐瀉物が電車内に飛び散ることは無かったのですが、だとしてもこの瞬間に私は間違いなく「悪」だったのです。何故ならその瞬間私は電車内にゲロの臭いを撒き散らす事で環境の著しい悪化をもたらし、譲るべきものも何も無く、ただひたすらに電車内のスペースを浪費する存在だったためです。この瞬間私は「(乗車に関する)善意の闘争」で完全な敗北者であり、見紛うことの無い「悪」だったのです。

そのような「善意の闘争」という問題にぶち当たった結果として、私はあんまり電車やバスなどに乗りたくないし、車内で座るなど正直勘弁してほしいのです。「席空いてるんだから座れよ」と言われる事は多々あって、仕方が無く座ってしまう事はありますが、座った瞬間に自分がどうしようもない残虐非道の悪であるかのような酷い罪悪感に苛まれます。

 

最近の社会情勢を観察していると、この「善意の闘争」というシステムがますます皆の意識の中で異常な肥大化を遂げているのではないかと思わされます。

電車の例で言えば「ベビーカー論争」がこれに該当とすると思います。
電車内にベビーカーを持ち込む事は善か悪か?みたいな不毛な話が延々続けられていますが、はっきり言って善でも悪でもないのです。電車内の空間を一定量消費してしまう、つまりパブリックな資源を一定量消費してしまうと言う意味では悪です。でも、それは切符を買って、電車賃を正確に支払っている以上は善悪の区別からは独立した「契約」です。電車賃を支払った以上、一定時間・一定距離の区間を電車内で過ごす事は契約上承認されている事であり、それは善でも悪でもないただの「契約」以上の意味を持たないはずです。
そのはずなのに、何故ベビーカーを電車内に持ち込む事が悪だとか善だとかで語られる必要があるのでしょうか? それはここまでの妄言を振り返れば「他者に善意を与えられない存在」だから「悪」である、となります。ベビーカーを両手で動かしている以上、もし電車が振動すれば他の人に寄りかかってしまうかもしれないし、赤ん坊が泣き始めたら電車内に騒音が響き渡る事になります。これは「電車内で万人が当然提供すべき他者への譲り合いの精神を提供できない」と見做される事になります。「善意の闘争」というシステムの生態系の中では「善を押し売りしないもの=悪」となるので、ベビーカーは悪であることになります。

こういう話は何も電車内にとどまった話ではありません。

  • はだしのゲン」は図書館に置いておくことで「善をもたらさない」ために悪なのです。従って表現の自由も何もかも無視して撤去するのが「善」なのです。
    (反論⇒「はだしのゲン」が実際に有害図書となるかどうかは、それを読んで内容を受け取った人間の感性による所が大きく、一概に悪だと断じる事はできません。全く同様に「エロい描写は全て有害だから悪」とか、「差別表現は全て有害だから悪」と十把一絡げに断じる事も非常に浅はかな事です)
  • 例え日本の発展を願ってやったことだとしても原発を推進した東電は「善をもたらさなかった」ために悪なのです。
    (反論⇒東電原発事故を起こしたくて、故意に原発メルトダウンさせたというのならばテロリズムですし、それは悪でしょう。ただし東電にテロ活動をする意思があったかと言うと甚だ怪しいわけで、するとこれは一概に悪だとはどう見ても言えないわけです。結果だけ見て行動全体の善悪を判断するのは非常に軽率です)
  • 安倍政権の経済政策が実施された結果日本の経済が少しずつ回復したとしても周辺諸国を圧迫しているので悪なのです。
    (反論⇒世界中の全ての人が幸福になるなんてありえません。輸出を回復させるために円安に持ち込めば当然お隣の韓国では自前の製品が売れなくなって打撃を被るのは至極当然で、これは日本の視点から見れば善、韓国の視点から見れば悪となります)
  • 「私に対して善いことを与えない者は全て悪」なのです。同時に「他者に対して善いことを与えない者は全て悪」なのです。
    (反論する気も失せる)

疲れてきました。こうして見てみると、「善意をもって行動しろ!」と叫ぶ人々が何と無意味で不毛な議論をしているかが酷く分かります。
別に私は人の善性を否定しようとは思いません。ただしそれは、善き人がいれば悪しき人もいるというだけの話なのです。全世界の人間全てに性善説が通用するなんてことは無いし、善かれと思って他人のために実行した事が結果的に相手に迷惑をかける事だってあります。
「善きことの為に」とは一体何なのでしょうか?
この世に完全なる善性などというものが存在するのでしょうか?

 

百歩譲って電車内でのベビーカーが悪だとするならば、それはどのような基準によって悪だと判断されるのでしょうか。ベビーカーが悪だというのならば世のベビーカー製造企業を相手取って訴訟でも起こすべきでしょう。赤ん坊が悪だというのならば少子化は善であるはずですよね。少子化を国力の衰退を招く悪だとするなら電車内のベビーカーは善でなければおかしいでしょう。善悪二元論だけで話を考えていくと、必ずどこかで破滅的に矛盾が起きて疲れ果ててしまうのです。善悪二元論だけでは明らかに次元が足りず、物事の本質を見ようと思うのならば別の視点から別の次元を提示しなければならないのです。

 

私はこういう「善意の闘争」が怖くてたまりません。

「あなたの為に」そして「みんなの為に」と全体主義を貫いた結果として何があったかは日本の歴史を見れば火を見るより明らかです。

モラルハザードが叫ばれて久しい日本ですが、それは同時に「モラルとは何か?」を突き詰めて考えた事も無い人達がしたり顔でそう叫んでいるに過ぎないようにも見えます。皆「善意の闘争」という奇妙な全体主義の中で踊らされているに過ぎないのではないか、とすら思うのです。