垂直都市に降る雨

東大院卒が綴る思索の影_記事の内容は全て個人の意見です。

陽炎の学堂

ひと月経ちました。頭の中に腐敗物が溜まってきたので、そろそろ良い頃合いでしょう。

基本的に私は頭の中で色んな物が堆積して初めてそれを言語化しようとしますので、何も積もっていない時にはブログは更新しません。「今日は○○のお店に行ってきました!チョーおいしかったです!」なんて事を書く気は起きないし、読んでる方もそんなものは私に期待する所ではないでしょうから。

 

「陽炎の学堂」

日本の最高学府(と呼ばれている何処か)で戦いを始めて一ヶ月が経過しました。

 

 

まず初めに断わっておきますが、私は東大に来たからと言ってすんなり東大生の仲間入りできるようなハイスペックな脳ミソは持っていません。しかしそれ故に思った事、それ故に感じた事は非常に多くて、良い意味でも悪い意味でも刺激の多い空間です。

そうですね、東大に来る前までは、きっと超絶な天才たちが犇めき合って、血みどろの戦いを繰り広げているのだろうと思っていました。しかし実際に東大に来てみて、少しずつ自分の認識が間違っている部分が明るみに出てきました。

 

「学生」
あまり関係のなさそうな話から。例えば、話せば話すほど天才性が明らかになってゆく奴というのは実際に存在していて、大抵の場合どこか一箇所常軌を逸して異常な性格的特質を持っていたりするものです。極端に明るくてストレスを知らない太陽みたいな性格をしていたり、逆に極端に暗く厳しくて絶対的な冷厳さを以て自らの行動律とするような奴がいたりするので、何らかの天才や何らかの鬼才というものは、ある程度時間を置いてゆっくり話せばおおよそ分かります。
東大にはそういう奴が山ほどいるんじゃあないかと期待していましたが、今の所そういう人は二人しかいません。まあ二人もいるならすごい事ですけど、本当はもっと沢山そういう人がいるのかと思っていましたので、少々落胆した所はあります。
東大生。どういう人がそこに集っているのか一ヶ月観察して、少なくとも自分の周囲にいるのは「学生」である事がわかりました・・・なんて言ったらバカにされそうですけれど、「学生」は「学生」であってそれ以外の何物でもないのです。
彼らは凄まじい速度で技術を習得し、知識を次から次へと拡大再生産していきます。そのスピードと量はやはり他の大学生の追随を許さないでしょう。圧倒的な程に「学生」であり、「学生」以外の何物でもありません。それが彼らの長所であり、同時に短所でもあります。凄まじい事に一度教えられた事は一発で覚えるし、以後ミスする事はありません。しかし、それを信じすぎているとでも言えばいいでしょうか、自分の頭の中にインストールされていない発想は元々無い物として取り扱うかのように振る舞います。
確かに東大にはその道の日本有数の専門家が揃っているし、大企業の幹部が講師として呼ばれてきたりする事も珍しくありませんから、先生方の教えや流れてくる知識は質・量ともに高水準です。しかしそれに甘んじているようではやがて己の意思や思考が摩耗して消滅してしまったとしても自分でそれに気付けないでしょう。「書いてある事や聞ける事は全て常識」なのです。常識や知識は勿論大切だと思いますけれど、それを自分の頭の中でスクラップアンドビルドして試行錯誤するような時間が必要だと思うのは、私だけでしょうか。

 

犬のように回廊を走れ
驚異的な考え方をする人々や、異常に鋭い洞察力を持っている人々は確かに存在していて、そこは流石日本の最高学府といった所です。しかしてその他多くの学生はそういった天才や奇才の類の人々を指さして「俺らはあそこまで行かない」というような奇妙な態度を取ります。ここで重要なのは「行けない」ではなく「行かない」と自分の意思で選択する点です。
例えば私の古巣である理科大では「俺らにはそんな能力は無いから無理」と言って最初から諦めきった態度を取る集団が一定数存在していました。最初から自分の能力を見限ってしまうとは何と勿体ない事だろうと思っていましたが、今見ている限りでは東大の人々はそれと似通っていながら微妙に違う面白い態度を取ります。彼らは「行かない」と自分の意思で選択する事で何か別の目的を追求しているように見えます。或いはそれは幸福な社会人として人生を謳歌する道なのかもしれないし、多様で多体的な可能性を専門に捉われず探ろうとする事なのかもしれません。
不思議な事には、そういう環境での戦いを見ていると、天才的な人々が猛烈な努力と思索を重ねて高みへ到達しようとしているのが酷く哀れに見えてくるというのもある種の真実です。才能がどうかという事よりも、犬のように東大の回廊を走り回って、絶対的な努力を積み重ねている人は勝手に高みへ到達します。傍から見るとそれは天才や鬼才と呼ぶに相応しい業績ですが、本人たちにはそういう感覚は一切無さそうです。ただ全力で走り回って、全力で思考しているだけなのです。ある種の余裕を前提条件としているその他大勢は普通の人間として歩いていますが、そういった余裕を微塵も持たずに犬のように走り回る(哀れな?)人程巨大な業績を上げています。

 

己の「型」を以て幸福へ挑む
ここまで語っておいてなんですが、それでも東大生はカッコいいのです。それは頭が良いからとか才能に満ちているからとか、そういう事ではありません。忙しさを己のモノとして完璧に取り込んでいる所がとてもカッコいいのです。それこそ上述のように、コイツは犬かと思われるほどの勢いで走り回っている人は沢山います。微塵も余裕なんかなく緻密なスケジュールの中で完全に制御された神経を張り巡らせる人もいます。或いは、普段サボっておきながらいざという時に凄まじい集中力を発揮して乗り切るような人もいます。
己自身の独自の形で目まぐるしい世界を渡って、悔いなき時間を歩もうという覚悟で満ち溢れている人がここには沢山います。そのために全員が試行錯誤しているし、より自分に合った形で人生を渡るための思考を止める奴はここにはいません。やはり、末席ながらこの場所に自分の席を頂けた事には感謝の言葉しかありません。何だかんだと文句をいう事もありますが、腐ってもここは最高学府で、集う人々は自らの幸福を追求する意思に満ち溢れる人々なのです。