垂直都市に降る雨

東大院卒が綴る思索の影_記事の内容は全て個人の意見です。

「このハゲー!」から考える態度の在り方

「このハゲー!」はアカンやろ、ああいう人が政治家やっちゃいけないよ。…と申したところ、某氏から「いやそれはおかしい」と反論されました。かなり驚愕の反論だったためちょっと「態度」というものを考えるきっかけとします。

 

 

とある反論から考えるケーススタディ
反論の趣旨はつまりこうです。

豊田真由子議員が非難されるのはおかしい。何故なら彼女の秘書は支持者宛の郵便物の宛名をミスするという常識的にありえない失態を犯したからだ。そんな奴は殴られても罵倒されても全くおかしくないし、豊田真由子議員が秘書を罵倒して殴り倒すのは当然の行為である。
自分のミスを棚に上げて上司の罵声を録音しマスコミに売り渡すこの秘書こそ忌むべき裏切者ではないか。豊田真由子議員だけが非難されてこの秘書が被害者ヅラするのは明らかに不正義である。

 …この意見を聴いてかなり悩みました。確かに政治家にとって支持者というものは命に代えても守らねばならない重要な権力の源であり、支持者に対して失礼な態度を取る事は政治家生命を破綻させうる極めて致命的な問題であると言えるでしょう。

例えば新社会人らしくこういう例を考えます。

A社は世界に名だたる大企業であるB社と取引しており、B社との巨大取引だけで殆どA社の利益の大半が占められているような状態です。もしもB社の担当者に失礼な事をしてしまったらA社存亡の危機です。
そんな中今年入社の鈴木君がB社からの電話にため口で失礼な回答をしてしまいました。B社の担当者は鈴木君の態度に怒り狂い、A社との取引を中止すると通告してきました。営業部長を始めとしてA社のお偉方は必死の思いでB社に土下座しに行きますが、結局B社は取引額を半分以下に削減すると宣言し、A社の財務状況は一気に大赤字へと転落してしまいました。

 もしもこういう例があったら、確かにこの鈴木君は上司に半殺しにされるどころでは済まないでしょう。というか首が飛ぶと思います。彼のせいで会社が傾き赤字となったのですから、彼一人の首で済めばむしろ良い方です。ここで登場する鈴木君は上司から罵倒されるどころの騒ぎではありません。生活の拠り所であった会社に居場所を失い、そして路頭に迷うことになります。
確かにそうなんです。失礼極まりない行為をしてしまった者は、それに伴って発生した影響によってそれ相応の報いを受けるべきだという事は確かにその通りなのです。
ではやはり「このハゲー!違うだろー!」正しい美しい言葉で、「そんなつもりじゃなくても~♪おまえのぉ~♪娘をひき殺してそんなつもりじゃなかったんでスゥ~♪」天使が罪人を断罪する掛け声であり、「娘が顔がグシャグシャになって頭がグシャグシャ脳みそ飛び出て車で引き殺されても、そんなつもりじゃなかったんでスゥ~♪」審判の日に裁かれるべき罪深き人々の原罪を謳う言葉なのでしょうか。

 

態度とは何か
そんなわけねぇだろ、というのが結局私の見解です。何故って、それは社会というネットワークの中で自己の幸福を追求するための言葉ではないと思うからです。

そもそも態度とは何でしょうか?
私の考えたこととしては「ネットワークの中に在って幸福を追求する」のが最も正しい態度の作り方であるという事です。そのために二つ視点を挙げます。

・ネットワークの中という前提条件
友達、恋人、上司、部下、夫婦、ライバル、敵対関係、腐れ縁、好敵手…人間同士の関係性にはふと思いつくだけでもやたら何種類もの関係性があります。何故そんなものが存在するのかというと、自分ひとりでは結局大きな物事は成し遂げられないし、誰かに迷惑をかけ迷惑を掛けられる関係性の中でしか仕事も学業も殆ど成立しないぐらい人間の姿かたちというものはネットワークに依存しているためです。
ネットワークの存在は前提条件です。人間同士の関係性からなる社会ネットワークの中に在るからこそ人には「態度」というものが生まれる、と私は考えます。

・幸福を追求するために考える習性
人は自己の幸福を願うものであると思います。「私は幸福になどなりたくない!」とか言い出されると途端にこの前提条件は破綻しますが、とりあえずは一般的には人は自己の幸福を追い求めるものだという事にしておきます。そうすると、「他者に対してどう接すれば自己の幸福につながるのだろう?」と考えるんじゃないでしょうか。それを丸っきり考えないならば、それは「態度」ではないと私は思います。

 

このどちらか片方だけでは成立しないという事も重要です。ネットワークの中に在るだけであれば八方美人でいつもニコニコしている事がネットワークを維持するために最も正しい態度であるという事になりますし、一方で幸福を追求するためだけであれば他人を殴り倒してスカッとするのも幸福の一つです。「ネットワークの中に在って幸福を追求する」からこそ適切な態度というものが生まれるのではないかと思います。
つまり、
最も自分の幸福に繋がるであろうと予測される展開に物事を誘導するために、ネットワーク上に存在する相手に対して使う言葉を選ぶ
という事が「適切な態度」というものではないかと思います。

 

「このハゲー!」で劇場に立つ
さてそんなわけで改めて豊田真由子議員の発言を見直します。

「このハゲー!違うだろー!」
「そんなつもりじゃなくても~♪おまえのぉ~♪娘をひき殺してそんなつもりじゃなかったんでスゥ~♪」
「娘が顔がグシャグシャになって頭がグシャグシャ脳みそ飛び出て車で引き殺されても、そんなつもりじゃなかったんでスゥ~♪」

これらの言葉を言われた相手はどういう事を考えるでしょうか。「豊田先生の仰る通りだ…私はなんてミスをしてしまったんだ…もう娘が車に轢かれて無残に殺されてもいい!」と思うでしょうか?もしそんな事を思う奴がいるとすればそれは真性のマゾヒストでありますし、人の親としては最悪級にクソッタレだと思います。
つまりこの言葉は秘書の仕事上の能力的成長を促さないばかりか、秘書の恨みしか買いません。秘書は政治家にとって最も身近な支持者であるはずで、だからこそ身を挺して重労働に耐えて政治家を支えてくれるのではないでしょうか。その秘書から恨みを買うとすれば、それは即ち民主主義国家における政治家としては三流も良いところなのです。
その三流な言葉を、自分自身にどのような報いが返ってくるかも考えずに秘書に対してぶつける行為、これは本当に「政治家として適切な態度」なのでしょうか。そんな訳ないでしょ。豊田真由子議員は自分が社会ネットワークの統率者たる国会議員であるという事も忘れ、自分がネットワークの中に在る存在だという事すら忘れてとにかく言いたい事を言い散らかしただけなのです。それは政治家として三流であると同時に、人間としての「適切な態度」としても三流以下なのです。

しかもそれが政治家だというのだから更に輪をかけて致命的です。小泉純一郎以降一気に劇場化が進み劇場型民主主義国家となった日本において政治家は多かれ少なかれ「演技者」でなければなりません。例え国民を欺く事になろうとも国民に不安を起こすような発言はしてはならないし、国民を侮辱するような発言をしてはならないのです。それが劇場型民主主義というシステムであり、今更そこに文句を言っても始まりません。
国会は謂わば「劇場」なのです。その劇場の舞台に立つ演技者が演技する事を忘れ「このハゲー!」と叫べばどうなるでしょう。「このハゲー!」が全国中継され、お茶の間の笑い者にされてしまうのは最早必定です。それが公人たる国会議員の定めです。
何故それを忘れてしまったのか。豊田真由子議員の稚拙さはそこにあります。秘書に対して辛い態度を取り続ければ、やがてはそれを録音されてマスコミに売られる事ぐらい予測すべきことです。現代は既にパワハラを無条件に許し続けるような時代では無いのですから、マスコミが格好のネタとして取り上げる事ぐらいは当たり前に予測すべきことです。豊田真由子議員は劇場の上で致命的な粗相をしてしまったのです。
また手を出した事も大問題です。パワハラだけならば社会的にもまだまだ多数存在している事ですし、百歩譲ってまあ仕方がない事かもしれません。しかし自分の部下や秘書がミスをしたからといってけちょんけちょんに殴り倒すような上司がどこにいるでしょうか。即座に裁判沙汰になるでしょう。「人を殴ったら裁判になるかもしれないよね」という事ぐらいどうして分からないのでしょうか?それすら分からないのであれば最早国会議員は愚か大半の職業に就けないと思います。しかも国会議員は公人である以上、プライベートを含む全てがパブリックな環境にあるのです。「公共の場で人を殴ったら逮捕されるかもね」という事ぐらい今時小学生でもわかるのではないでしょうか。
劇場に立つ以上、劇場に立つための覚悟ぐらいは常に持っておかないと破滅するのです。

 

態度と人の在り方
態度はその瞬間のその人を決定づけるものです。豊田真由子議員は「このハゲー!」で劇場に立つ大根役者になりたかったのでしょうか?それとも秘書を罵倒しまくって叩き潰すパワハラ至上主義者の国会議員になりたかったのでしょうか?そんな事はないはずです。…はずですが、結果としてはそうなりました。
私もかなり派手にヒステリーを起こす性格なので、いつ豊田真由子議員の二の舞になってしまうかと思うと他人事とは思えない部分があります。だから少し考え方として、態度というものを考える時は、常に理想の自分みたいなものを意識しておいた方が良いのではないかと思います。「理想の自分だったらこんなことは言わないな」と思っていれば、多少なりとも態度というものを正確に制御するための切っ掛けぐらいにはなるんじゃないかと思うのです。友達に向き合うとき、恋人に向き合うとき、上司と話し合うとき、お客様と打ち合わせするとき、ライバルと戦うとき、好敵手と競い合うとき、どんな時にも「人の在り方」みたいな意識を持つことが、それだけでその人の態度をより洗練させてゆくのではないかと思うのです。
それを持てなかったことが豊田真由子議員の最大の汚点であり、私たちが彼女の起こした事件、そしてそれによる煽りも受けて自民党が都議選で破滅した事から学ぶべき教訓であります。「人の在り方」という意識が人を洗練するし、それを持たない事が組織にダメージを与えるきっかけにもなるという事でした。