垂直都市に降る雨

東大院卒が綴る思索の影_記事の内容は全て個人の意見です。

思想の破片集 1箱目

最近、他人に対してLINEのノートで色んな事を書いて色んな意見を貰ったり議論するという事にハマっています。物好きな人もいるもので、私が書きだすちゃんちゃらおかしい辻褄の合わない意見を面白がって読んでくれる人が割といるので、少しは救われた気分になります。
ブログに書くほどではない「思想の破片」たちです。ある程度分量がまとまったらこのような形で箱詰めにして公開できたらと思います。基本的に「破片」でしかないものなので、間違った事を書いていたとしても「すいません間違えてました」としか言えません。あまりガチンコで文句を付けられても対応は致しかねます。まあ。
(公開できない部分については適宜文章を書き換えています)

 

 

日本製造業の破滅に対する経済学的な理解

専門化された知識が日本企業では全く評価されないという問題は、経済学的には、「企業特殊的技能」という言葉で説明されます。日本企業では人が全然育たず、しかも終身雇用を前提としているというのはこの「企業特殊的技能」が諸悪の根源であると考えられています。
「企業特殊的技能」とは簡単に言うと、その会社の中でしか評価されない技能です。その会社でしか使えない測定法みたいな特殊的技術から、各上司との付き合い方のような人間関係まで、日本企業では異常なほど企業特殊的技能が優先されるため、基本的に労働者は他社に移るということができない仕組みになっており、 そこからナッシュ均衡的なアトラクタとして終身雇用制度が導き出されます。
一方欧米諸国では、企業特殊的技能とは逆の概念である「一般能力」が猛烈に重視されます。 「一般能力」とはその名の通り、一般的にどこの会社でも等しく評価してもらえる能力を指します。医師免許、論文や特許、その他資格試験、大学や大学院での履修単位数と成績、などなど、「数値化・資格化して明らかなその人の実力」です。 一般能力が猛烈に重視される欧米諸国では、労働者は自発的に勉強して自分の価値を高めてゆき、それをアピールする事で他社へ移るのが一般的です。従ってより高い能力を持つ高度専門労働者は、より好待遇を用意してくれる企業へ勝手に移動して行くので、ブラック企業は勝手に破滅してくれるし、競争力の無い企業は勝手に消滅します。 ナッシュ均衡的なアトラクタとして、強力な競争主義と冷酷なまでの実力主義が導き出されます。そうして欧米諸国は、日本では理解不能なレベルで実力の差が開き、それがそのまま極端な貧富の格差へと固定化されてしまった。

さーてー
ぱっと見では、一般能力の重視される欧米諸国の方が高度専門労働者には良い環境に見えます。しかし本当にそうでしょうか?
実は日本でテクノロジー企業が勃興したのは、日本企業が企業特殊的技能を重視する終身雇用制を持っていたからだとされています。 一見すると不思議な話に聞こえますが、終身雇用制によって一人の技術者は何年もの間一つのテーマに腰を据えて集中できます。東レなんてその良い例です。終身雇用制とは基礎研究に対しては抜群の効果を発揮する労働者マネジメントなんですね。
日本式製造業が世界に冠たる強力なテクノロジーと生産力を身に付けることができたのは、まさにこの点にあります。終身雇用制が技術を支えたのです。 しかし21世紀以降日本式製造業は著しい凋落を経験しました。これは「単一の専門技術を深めるだけではイノヴェーションを起こせなくなった」という、テクノロジーの発達タームが一つのパラダイムシフトを迎えたことに起因します。 一人の熟練研究者だけでは最早イノヴェーションを起こせず、複数人の知識が行き渡るようにならなければダメ…ことここに至っては、これまで日本の技術を支えてきた終身雇用制がかえって猛烈な足枷となってしまいます。
スティーブ・ジョブズに代表されるような破壊的イノヴェーションは、ジョブズ一人で成立したものではありません。ジョナサン・アイブのデザイン能力、ティム・クックの生産工学能力があったからこそ成立したもので、ジョブズという天才的リーダーに魅せられた彼等がジョブズの旗印の下に集合できたからこそ、なのです。
日本式製造業では人の移動は不可能です。どれだけ高い志や素晴らしいアイディアを持っている人がいたとしても、それぞれ他社ならば彼等が協力しあう事は不可能なのです。 従って日本式製造業は企業特殊的技能による終身雇用制の縛りで、人の力や才能を集められなくなってしまった。最早一人で手を伸ばせるはずもないイノヴェーションの高みにたどり着くことは、日本ではほぼ無理となったのです。
日本の製造業がこんなにクソな理由は、こうして経済学的にきれいに説明が付けられます。ね?経済学は楽しいでしょう。

日本企業の中でも特に力の強い企業、それこそ東レみたいな所は、終身雇用制のシステム的限界に既に気付いています。しかし終身雇用制を東レ一社だけで変更する事はできない。
だから本当に力の強い企業は、終身雇用制を維持したまま実力主義体制を同時に施行する、まさに「企業社会主義」とでも言うべきシステムを作り始めています。企業社会主義体制においては、企業に貢献する者に対しては手厚い福利厚生と高い給与が保障され、不自由のない生活が約束されています。一方で企業に対する貢献が低い者には最低限の福利厚生と給与が与えられるのみであり、まさに「社内格差」を作る事で優秀な人材を手厚くマネジメントする方針に切り替えたのです。
だから裏を返せば、クソみたいな条件で働かされる現場では徐々に品質を維持できなくなります。それが神戸製鋼三菱マテリアル東レのような製造偽装へと繋がっていく。企業社会主義体制は本質的には長続きするものではないのです。
東芝の崩壊もあり、今や日本企業は社会全体での変革を迫られる時期にあります。やれやれ。

 

デジタライズされる意識

デジタライズされる意識、という考え方がありまして、 なんて言うか、私はそれこそ幼稚園児の頃に始めてPCに触れて、それからずーっとPCやスマホのような情報機器にかじりついているんですよ。
そうすると、やがて「実は自分の頭もPCも、極めて似たような動きの下で状況に対応するためのプロセッサに過ぎない」という理解をするようになります。
スマホに新しいアプリを導入して新しい機能が増えるように、自分の頭にも適当な…それこそ経済学の教科書を丸ごとすっぽりインストールしてしまえば、経済学的な演算機能が自分の脳みそに追加される訳ですね。 スマホと違って人間の脳は使わない機能は忘れていってしまうので、「使わないものを勉強しても意味ない!」とか言い出す人がいますけど、それもまたそれで少し違っていて、 人間の脳には常に「知識の感覚」が残るんですよ。勉強した事を使わなかったから完全に雲散霧消して忘却しきってしまう訳じゃなくて、それこそ「感覚」は死ぬまで無限蓄積されていきます。
その「感覚」を複数用意して、「モード」とするのです。スマホだってカメラモードやら電卓モードやら、一つ一つの機能がモード化されているから使いこなせるのであって、モード化されていないとすれば情報の整理が付かなくなって死にます。 「化学者モード」「数学者モード」「投資家モード」みたいな職能的モードから、「英語モード」のような言語モード、また「お父さんモード」とか「お母さんモード」のような親としての性格モードがあっても良いし、「息子モード」とか「娘モード」というものがこれまで私達を支配してきた性格モードであるわけです。

意識をデジタライズするというのはまたちょっと変な感じかもしれませんけども、自分の意識のあり方を深く分析して、日常における考え方の全てを合わせこんでゆく作業です。 それをコンピューターの情報処理の形から学ぶことで、より合理的で手っ取り早い目標設定と最適化の流れを精神的に創っていこう、という。そういう事を考えても面白いじゃない?って思います。

 

判断限界の極限とAI
AIの持つ可能性について日本で議論すると、せいぜいが産業サービスの最適化論ぐらいしか出てこないのですけども、AIとは本来は「判断の限界を理解するためのツール」なんすよ。
無数に存在する統計モデルの中から最適らしい一つを選び出し、それで物事を解析するなんて事は経済学者とか統計学者ならば誰でもできます。でも、それが本当に最適であるのかは誰にもわからない。 そこでAIだったらば、数千もの統計モデルを全部試して、現象論に合致する最適モデルを最大の確度で選択できる。ここには「判断限界の極限」があって、人間にはそれを乗り越えられない訳です。
やがてはそういった判断限界の極限を全てAIが担当してくれるようになりますよね。大企業の経営判断は重みづけを微妙に調整された複数AIの合議体制で決定できるようになるし、女の子を口説いて落とすためのプレゼントのタイミングと価格ですら統計モデルの中から判断を見つけられるようになります。 つまり、既存の判断限界極限は、もはや全てAIに任せてしまって、人間はそれを回避して進めるようになる。人間はその先で、何を担当すれば良いだろうか?

大半の人々はAIが出してくれる答えを安易に信じ込むようになり、自分で考えるということをしなくなります。女の子といつセックスするかまでが全て統御される世界が、やがて本気でやってくるわけですね。そうしてAIが人間社会の複雑系全体をそのプロセッサの中に捉えたとき、AIはAL(Artificial Life)として完成します。 Artificial Lifeはその物そのまま「人工生命」と翻訳します。日本ではまだまだ聞き慣れない言葉だけども、実は人工知能研究の現場では割と普通に使う言葉だとかなんとか。
人類が人工生命に完全敗北するまで、後何十年残っているでしょうか?それでも百年ぐらいはまだ残っているというのが私の考えになります。 それは「最適解が本当に社会的最適解なのかは、人間が判断しなければならない部分として最後まで残る」と思うからです。人間がより効率的かつ生産的に動くようにすることは、幾らでもできます。それはAIが最も得意とする所だからです。でも、人生は効率性と生産性だけで成立してるわけではない。 そういった「不合理」をAIに理解させるのは、最後の最後まで大変な困難です。だって人間だってその本質を理解しているわけではない、だからこそ哲学があり、文学があり、芸術があるのです。

だから私たちは、AIにより既存の判断限界極限が乗り越えられるようになってしまったとき、どうやって最後の「不合理」を自らの意思の寄りどころにできるのかをこそ、考えないといけないのですよ。

 

マーケットの成熟とその次思想
ヘルスケア向け機器のための材料開発みたいな話は流行りですけども、普通にやってたら多分ゴール地点までは辿り着けないわけですよ。特許を一本ぐらい出せれば御の字で、そこまで行けるかどうかも危うい。ヘルスケア市場といえば、間接的には人命にすら関わってくるマーケットです。変なものを作れば人が死ぬ訳で、その点で品質にも技術にも抜かりがあってはならない。しかしそこまでの品質と技術は普通にやってるだけでは用意できない。品質でOKが出ないか、もしくは無理やり出荷したものが人に重大な害を与えて裁判沙汰になって組織を滅ぼすのが関の山です。
それでも何故バカどもがヘルスケア市場に活路を見いだそうとするのかというと、ヘルスケア市場は急激に拡大する真っ最中だからです。拡大途中の市場は成熟していないため、技術的に未熟な製品であっても淘汰されません。 ただし、マーケットの拡大が停止すれば、それ以降は話が別。マーケットの成熟化とともに技術的に未熟な製品が淘汰されてゆき、最終的にダメな製品なんてもんは一かけらも残りません。最終的には特許だけが記念碑的に残ることになるでしょう。
だから、「技術が無ければ無いほど、『その次』を考える」事が重要になります。

今現在のヘルスケア製品市場は、老人どもが増え続けているから無邪気に拡大を続けているのであって、老人どもが皆死に絶えれば拡大から成熟化フェーズへ移行します。
としたら、それでは「老人どもの世界」の次に来るのはどんな世界か?
私はそこに対して「集積と過密化の果てに極度に特殊化された世界が立ち現れる」という基底思想を考えています。具体的には、農業がその最大の影響を受ける分野であろうと思います。
人口爆発の流れは最早世界的なメインストリームであり、農業インフラは既存の平面農業では全く追いつかなくなります。農産物の価値はグローバルマーケットの進化と共にどこか閾値を越えたところで急激に跳ね上がる。 更に最近だと「燃料植物」というテクノロジーも実現に近づきつつあります。遺伝子工学によって作られた植物で、葉っぱを絞れば石油と同等のエネルギー液体を抽出できるという嘘みたいな植物です。 すると農業への圧力は爆発的に跳ね上がってゆくことになる。日本の農業のような非効率と不合理を旨とする旧態依然の農業は淘汰されてゆき、全く別の形の農業が生まれてゆくでしょう。
特殊化された農業は特殊化された技術に一気に金を流し始めます。やがて農民・農薬会社・土壌改良会社・土木会社・農業重機会社など諸々の関連会社で編成される企業コンソーシアムが巨大な市場影響力を発揮するようになります。
例えば、バイオ産業の巨人であるモンサントに農業資材会社が不織布を持ち込んで、「もう土壌は不要、不織布と栄養溶液だけで育成できる作物」という化け物じみた植物産業を彼らとともに作るわけです。 「洗う必要もない。買ってきた農産物はそのままお鍋に放り込んでお料理できる!」なんて言ったら、それこそ世界中の食品産業が激烈に変化しますよね。

「老人どもの世界」の次には「特殊化された世界」が始まってゆくのです。