垂直都市に降る雨

東大院卒が綴る思索の影_記事の内容は全て個人の意見です。

雑感: 届く範囲に

根本的に私はアホなので、目の届く範囲内にあるものしか理解できないし、覚えていられません。ただし目の届く範囲内にあるものについてはその機能、性質、構造に至るまで全てを理解して記憶しようとするので、「好きな分野だけ異常にこだわる偏執狂」みたいな言い方をよくされます。

 

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そう、何もかもが「私の感覚の届く範囲」にいて欲しいのです。私の理解すべきものは私の目の届く範囲に、私が聴くべき音楽は私の耳の届く範囲に、私の愛すべき人は私の言葉の届く範囲に。とにかく「届く範囲」にあるものでなくてはなりません。

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世界はあまりにも狭い。というのは、世界の実際の広大さに比して人間が一生に「届く範囲に」収められる世界があまりにも小さい事を言っています。あなたが一生で見る事ができる風景は世界の半分にも到達しないし、あなたが一生で聴く事の出来る声や音楽は世界の全ての音の半分にも満たないのです。世界は広くても、人間が一生に手にすることのできる世界はあまりにも狭く小さい。

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「届く範囲に」という考え方は割と色々な物事に対する暗澹たる、しかし正確な考え方として提案できるんじゃないかと思います。「世界に飛び出そう」みたいな意識高い系スローガンが今現在の流行りで、私を含め若者たちはそういった事を耳にタコができるぐらい聞かされ続けて育っていますが、真に偉大な人々は世界に飛び出した者たちではなく、「届く範囲に」自分の世界を創り上げた人々であると私は考えています。

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「届く範囲」には当然の事ながら限りがあり、人間一人の知性にはどれだけ勉強しても辿り着けない宇宙が知性の外側にも無限に広がっている事は明白です。けれども、人間の知性には限りがあるがゆえに、自分の限界を知る事もまた強烈に困難です。かくいう私も色々な所に限界を感じて来てはいますが、まだ伸びると無邪気に信じています。しかし死ぬまでには必ず「これ以上の事は分からない」という限界にぶち当たる事になるでしょう。それを知っているという事が一種の「足るを知る」という事の要件なのではないかと思っています。

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だからこそ世界は外に求める物ではなく、自分の「届く範囲に」作らねばならないものだと考えています。文化、芸術、科学、政治、仕事、感情、そして誰か大切な人への愛まで含めて、自分の「届く範囲に」作っていかなければ最終的には意味をなさないものであると考えます。