垂直都市に降る雨

東大院卒が綴る思索の影_記事の内容は全て個人の意見です。

「間違った事を発言すること」と社会キャパシティ:2

私流コミュニケーション論、第二編です。
今回は前回考えた話である「何も知らない者が何も知らない事に意見を言う」という頭悪い事態は何故発生してしまうのだろう?という事について、例えば現代人がみんな口をそろえてヒトラーを批判する例から考えてみたいと思います。

 


 

何故現代人がヒトラーを批判できるか
みんな堂々とヒトラーのやった大量虐殺は人類の過ちだった」と言うじゃないですか。では、人を殺したことも殺されたことも無い人間がどうしてそんな事を堂々と言えるんですかね。ヒトラーを非難する事ができるのは、1943年から44年にかけてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に連れてこられ、家族を皆殺しにされ自身も殺されかけた経験のあるユダヤ人だけではないですか。何故地球の裏側でのうのうと平和に暮らす現代の日本人が、地球の裏側で行われた過去の大虐殺を非難する事ができるんでしょうか?

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こういう問いかけをすると多分「お前は死ぬほど馬鹿だな!大量虐殺が悪じゃないとでもいうのか!」と怒鳴る人は結構いると思うんですけど、では何でそういう人は日本社会においてかつての大量虐殺に劣らないぐらい多くの自殺者が出ている事や、ブラック企業の現場で使い潰されて過労自殺する人が後を絶たない現状を非難しないんでしょうかね。
 
ここで私は、コミュニケーションとは少なからず「非対称」なもので、特にネット上での意思疎通については「非同期的」なもので、殆どの人にとってそれは自分の興味関心のある分野にだけ「不均一に実行される、という基本的な原理をちゃんと再確認しておきたいと思っています。
 
☆コミュニケーションの知的な非対称性
人は全知全能ではないので、自ずから「知らないこと」というものが出てきます。歴史を専攻してれば物理学については知らないし、化学を専攻していれば政治学については分からない。分からないのは当たり前なんですよ。
しかしながら現代では一人の人間が処理しきれないほど多種多様で多彩な分野についての情報が流れ込んでくるようになりました。文学部を卒業して商社に入ったサラリーマンでも原発問題を通じて先端物理学について見聞きする機会はあるし、化学者でもSTAP細胞問題みたいな狂気じみた問題を通じて倫理学政治学について考えなければならない事は大いにあります。要は「自分が知らない分野だからと言って避けて通る事ができない」という時代があり、環境があるのです。すると多くの場合「知らない分野に対しても、乏しい知識を総動員して何らかのコメントを出す」という事が求められるようになります。これまで原発の事なんて考えた事も無かったような文系就活生が、いきなり企業の面接官から「あなたは昨今の日本社会における原発問題やエネルギー問題に対してどのような意見を持っていますか?」みたいなクソの足しにもならない質問を投げられるわけです。

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つまりここに於いては、対話する両者の間で予め前提となる知識に差があるという状態で話をしなければならないのです。面接官は火力発電に莫大なコストが発生するから原発は再稼働すべきと思ってるかもしれないけど、就活生はそんな事も一切知らないまま「多くの人を苦しめた原発を国土に放置しておくのは嫌です!」みたいな意見をいきなり言わされる訳です。
例えばアウシュヴィッツの例に戻ってみましょうか。ヒトラーがやらかした大量虐殺を非難するのはまあ当然っちゃ当然ですが、では何故そのヒトラーが権力を握る事を当時のドイツ国民は許してしまったのか?何故ナチスこと「国家社会主義ドイツ労働者党」が実権を握り独裁化する体制が民主主義から生まれてしまったのか?そういう議論ができなきゃ単に「ヒトラーは嫌い」と言ってるのと本質的に何も変わらないけど、多くの人はそこに気が付かないまま「ヒトラーは嫌い」と言っているだけなのです。

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それに対して、では本質的には何が悪いのか?何が民主主義を堕落させ独裁による大量虐殺を許してしまったのか?こういった話を考える必要があるのは、何も哲学者や歴史学者だけではありません。民主主義こそは世界最高にして無二の平等政治形態であると本気で考えるならば、何の知識も持たない市民一人一人こそが何の知識も持たないままに本質的な問いへ進まないといけない。そのためにTwitterとか色んな書籍で学者や知識人たちが色々な事を言っているのを読んで考えるわけですが、これは本質的に全く非対称なコミュニケーションです。だって学者たちや知識人たちには独自の経験や勉強に基づく深い知識がある一方で、市民には何の知識の欠片も無い状態で議論を始めなければならない。

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であれば、本質的には市民の側には間違ったことを言い出す奴が大量に現れるのはある意味当然といえば当然で、間違ったことを間違っていると指摘されないままに声のデカいバカが大騒ぎし始めるのも分かりやすい事です。だからこそ学者や知識人と名乗る人々は、知識を徹底的に授ける事によって市井の人々を常に啓蒙しなくてはならないのです。

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☆コミュニケーションの非同期性
ネットが登場する以前から、コミュニケーションは完全に同期的なものではありませんでした。その最大の例が「手紙」です。手紙は執筆者が書いてから届くまでに一定の時間を要し、場合によっては届かない事もあったわけです。だから手紙を出す人は、遠方に居る誰かとのコミュニケーションを時間をかけてじっくり行う必要があったわけです。

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これがSNSの登場によって一気に色々な形態のコミュニケーションに広がりました。現代では届かないメッセージなんてものは最早殆ど存在しませんが、実質的にはLINEだろうとFacebookだろうとTwitterだろうと「メッセージをしたため、それを誰かに送る」という点で手紙の延長線上にあるものと考えられると思います。
ここで面白いのは、非同期なコミュニケーションという考え方が大幅に拡張された事です。かつては非同期的なコミュニケーションと言えば書いた手紙を郵便屋さんへ投げて、それっきりでした。自分が何を書いて相手に送ったのかを確認する事はできなかったし(そのため重要な契約書などは全く同じ内容の写しを作ってから送りました)、相手が読んでくれたのかも分からずじまい、相手から返事が返ってくるまでにも長い時間が掛かりました。
これが例えばLINEになったらどうでしょうか?自分が何を書いて送ったのかは確認し放題だし、相手から返ってくるメッセージだって何度でも読み放題です。「愛してる」「私も愛してる」みたいな愛のやり取りをノートに残しておくことだってスクリーンショットにして保存しておくことだってできます。ある意味ではここに掲示板的な「メッセージの蓄積保存性」が加わったと言えるわけです。同様の事はFacebookにもその他のSNSにも言えます(だから裏をかいて一定時間で消滅するinstagramのストーリーみたいな形態での「過去への回帰」がありがたがられたりします)。

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このようなメッセージの保存蓄積性とは、「非同期的なメッセージを読む」という事において重大な役割を果たします。何十枚にも及ぶ手紙を何十年も保存しておくことはそれだけで骨の折れる作業ですが、この作業が誰でも手元で指先一つでできてしまうことになった。これは重要な事だと思います。

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こうして「非同期的なメッセージ」が簡単に読めるようになるという事は、同時に「過去を振り返るのがとても簡単になる」という事でもあります。かつてだったら巨大な図書館に行って重厚な歴史書を一ページずつめくって読み下さなければならなかったようなことでも、ネットの登場からウィキペディアの充実、今は電子書籍まで手元で読めるとなってしまえば、もはやその利便性は語るまでもありません。人間は図書館までわざわざ足を運ばずとも、自分の手の中で遠く離れたドイツでどんな大虐殺が行われたかまで詳細に振り返る事ができるのです。
だから私たちは、いわば「非同期的な過去によって知識を与えられている」のです。
現代人であればヒトラーがどのような大虐殺をやったか、そしてその過程でアイヒマンを始めとするヒトラーの部下たちがどのようにユダヤ人虐殺のためのシステムを創出したかまでを正確に振り返る事ができるのです。私たちはヒトラーヒトラー以上に知る」ことができるのです。

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☆コミュニケーションの不均一性
私たちには「興味関心」というものがあります。それは例えば自分が問題意識を持っている社会問題であったり、自分が学生時代に専攻した学問であったり、自分が今朝食べた食い物の内容であったりします。
当たり前ですが、人は興味関心を持っていない所に反応するのはかなり困難です。野球の事しか考えていない野球バカな野球選手に不斉合成触媒の秘密について聞いても反応できないでしょうし、逆に朝から晩まで有機合成の事しか考えていない化学者に中日ドラゴンズの今後の行方について聞いても反応できないでしょう。それは興味関心がないからです。

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何を当たり前の事を言ってるんだと言われそうですが、現代社会においては「興味関心がないから反応しない」という事が徐々に許されない状況が形成されつつあります。一番わかりやすいのはここでも就活生だと思います。これまで歴史に何の興味も持たず、バイトと恋愛とサークル活動にだけ取り組んできた大学生が就活の場で突如「今年はアウシュヴッツ強制収容所の解放から74周年ですが、あなたはヒトラーによるホロコーストについてどう思いますか?」みたいなことを聞かれるわけです。ここで「興味ないので知りません」みたいな反応を返したらとりあえず面接は落とされますよね。従って、何とか知識の限りを振り絞ってそれらしい答えを言わなければならない。

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しかし世の中は狭いもので、その就活生の隣には下手すると東大文学部卒の歴史マニアのド畜生ガリ勉野郎が座っているわけです。
ヒトラーの為した事はヒトラーただ一人によって成し遂げられたのではありません。後にハンナ・アーレントが指摘している通り、アドルフ・アイヒマンに代表されるような『無批判にシステムを受け入れた者たち』によって大量虐殺システムが構築されたと考えるべきでしょう。これは現代にも通用する教訓で、私たちも社会の一員となるにあたってただ言われたとおりの仕事を言われたとおりに受け入れ処理するのではなく、自律的に仕事の意味や必要性を考えて行動できる人間になる事が重要であると思います」
みたいなことをいきなり隣で語られれば、即座にそいつの一人勝ちでグループ面接は終了です。

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そういう状況を見ると、分かりやすくコミュニケーションとは不均一だなあって思います。人は誰しも、興味関心も無ければ知識もないような所で無理やり頑張って自分の意見を言わねばならないし、そうすればどんどん他人とは興味関心においても知識レベルにおいても全く違う意見を言わねばならないのです。

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このように、本質的にコミュニケーションとは「非対称」で「非同期」で「不均一」です。知識レベルも違い(非対称)今現在の話ですらなく(非同期)興味関心にも個人差がある(不均一)そんな特性こそがコミュニケーションにおけるすれ違いを生み出す源泉となっており、また人が人とコミュニケーションすることによって新しい発想や境地に至る事ができる事の基本的な仕掛けです。
こういったコミュニケーションにおける「彼我の差異」を許容するからこそ現代人はヒトラーを堂々と批判する事ができるのではないかと考えます。
 
彼我の差異を前提に置いた上で考えれば、人と人とがコミュニケーションする事ですれ違いや対立が発生する事はある意味当たり前の事でありますし、どちらか片方が明らかに間違った意見を言い出す事だって当然有ってしかるべき事態であると考えられます。ある物事に対して知識もなく、現在目の前で展開されているのでもなく、興味関心もないとしたら、その人が間違った意見を堂々と発言してしまう事は大いにあり得る事なのです。