垂直都市に降る雨

東大院卒が綴る思索の影_記事の内容は全て個人の意見です。

「間違った事を発言すること」と社会キャパシティ:1

新年早々の落合先生の炎上っぷりを見ていると、議論の中身よりもコミュニケーションの面白さに目が行きました。今回は新年早々バチクソにガチンコの私流コミュニケーション論、やります(案の定クソ長いのでまた幾つかに分割してお届けします)。
(肝心の落合先生の議論の中身については的を射てない批判が多いのでもう少しネット上の論争が整理されてからの方が良いような気がします)
 
ネット上で自分なりに何らかの意見を発信しようとすると誰しもがぶち当たる壁として、
「自分は全てを知ってるわけじゃない」
という、どうしようもない問題があります。
 
今回は「自分は何にも知らない」という厳然たる事実と、「それでも意見発信する」ということ、そしてそれが「間違った意見」だった場合について。何編かに分けて書いてみたいと思います。
第一編は「何も知らない」という前提条件についての考え方と、同じく何も知らない人間による、謂わば「映画監督ではない奴の映画批評」をどう理解するかについて。
 

 

拝啓、何も知らない者へ
言うまでもなく、私は何も知りません。日本の政治制度について知悉してるわけでもないし、原発問題に深い知識がある訳でもないし、では自分が大学や大学院で専攻した学問に深い知識があるのかというと、別段そういうわけでもない。私は何も知らないのです。だから、今までにも非常に厄介な手合いに噛みつかれた事はあるし、間違いを正面切って指摘され完全論破された事も沢山あります。
 
かつてTwitterにドハマりしていた時代の話です。みのもんたが現役でテレビのワイドショーに登場して、原発に関して色々と訳の分からない話をしていたのを未だに覚えています。「やっぱり原発なんて直ぐに廃炉にすべきだよ!」なんて、よくもまあいけしゃあしゃあと言えるもんだ…そう思った若かりし頃の私は「メディアの最前線に立つみのもんたがテレビの現場で直ぐに廃炉を騒ぐのはよくないんじゃないか」というような内容のツイートをしました(当時のツイートの正確な内容は覚えていません。もう消したので)。

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いや、たったそれだけの事でした。それだけの事が当時猛威を振るいに振るっていた狂信的な放射脳に噛みつかれてしまったのです。

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脱原発に賛成できない時点で所詮は三流」
みたいなことを堂々書かれたのを未だに覚えています。初めてネット上で訳の分からない人に訳の分からない噛みつかれ方をしたので、私はパニックになってしまいました。そんなに原発に賛成する意見を書き込んだわけでもないのに、どうしてここまでこの人は噛みついてくるのか?よくわからなくなったので弁明を試みました。
「そんなに原発に賛成しているわけじゃないです、ただメディアの現場に立つ人がそういう事を軽々しく言っていいのかっていう事が気になっただけです」
そういう感じに書いたと思います。いや、今考えても私は別にそんなにおかしなことは書いてなかったと思います。それがどうか。

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「テレビの人だからこそ脱原発を叫ぶのは当然。理解できないお前の頭が悪い」
みたいな事を言われました。もう完全に私はやる気がなくなって、その人に反論しようとするのは止めました。はいはい、確かに私は低能の原発推進派ですよっと。世の中には言葉を理解できない人が溢れているものです。
 
そう、世の中の大半の人々は言葉を理解しません。
文字を読み取る事まではできても、その文章の背後にある執筆者の真意や、どのような前提知識を踏まえてそういう事を語っているのかなんてのは普通の人には理解できないのです。
私だって原子力工学の専門家ではないし、火力発電所を動かすのに一年間に幾らのコストが発生するのかなんてのも分からない。分からない奴が分からないなりに自分の言葉で意見発信して、それを分からない奴が分からないなりに脱原発という宗教を盲信して噛み付いてくるんだからもはや救いがたい状況だと言えます。本質的に人は何一つ何もわかってないのです。

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そんな状況でも、それでもめげずにTwitter上で色んな意見を発信し続けていました。最初は結構頑張っていたんですが、トレンドとなっているニュースについて言及すれば必ずトチ狂った謎のド畜生から「お前はアホだ」とか「そんな意見を言う時点で反社会的」みたいな人格否定に満ち溢れたクソリプを付けられるようになり、疲れ果てて自分の意見を発信するのはTwitterでは止めました。以降私のアカウントはリツイート100%アカウントとしてしか機能していません(そろそろ再開するかもしれないけど)。
 
私は、何も知らないのです。
原子力工学原発ビジネスについても知らないけど、それでも原発について意見を言いたい。政治について何か知っているわけではないけど、それでも政治について物申したい。漫画制作やアニメ制作について何か知ってるわけではないけど、好きな漫画やアニメについて語りたい。
何も知らない者が何かを語る事は、ダメな事なのか?
これが今回考える最大のテーマになります。

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映画監督じゃない奴の映画批評
前の記事(私の見ていた世界 - 驟雨の標)に出したと思います。例の「めだかボックスに出てきそうな友人」です。

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彼とは色々な対話を繰り返しましたが、その中でも特に私が問題意識として後年まで考え続けていた事に「映画監督じゃない奴の映画批判」という話があります。まあ簡単な話で、

「映画を作った事の無い者が映画の出来不出来を批評する事は、映画制作者の思いを踏みにじる生意気で傲慢な行為ではないか?」
という話です。彼と対話した数年後には落合陽一が「批評家になるな、ポジションを取れ」という言葉で同じような事を語っていて、まさに我が意を得たり!という感じだったんですけども、こういう事について皆さんはどう考えますか?
因みにその友人は「自分には映画を作った経験は無いから、どれだけつまらない映画だったとしても批判したり非難したりはしない」と語っていました。

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私は反対の立場です。だっておかしいと思いませんか。
それならばお前は何を知っているんだ?と思うわけです。
例えば金融業界に30年勤め上げて、経済や金融市場の事に詳しい人がいるとしましょう。それではその人はこの先資本主義経済がどこへ向かって行って、何が起きるのか全て知ってるんですか?知ってないなら未来の経済に言及するのは止めてくださいよ。今年の世界経済がどうなるかについて意見を述べるなんて以ての外でしょう。だって「その人は経済そのものではない」からです。「経済そのものではない人間に、経済について言及する資格などない」となるはずです。
じゃあしたり顔で訳の分からない経済理論を振りかざして経済批評をする経済評論家とは一体何なのか?「経済そのものではない」はずの愚かな人間が、どうして経済に言及する事でテレビ出演したり本を書いたりしてお金を貰ったりしているのか?明らかにおかしいですよね。

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同じ事が映画監督にも言えてしまうじゃないですか。黒澤明監督の映画作品は世界中のアーティストに影響を与えた伝説的作品群ですが、ではそんな作品を世に送り出した黒澤明監督は「映画撮影」という物の全てを知り尽くしていて、2019年にどのような映画作品が現れてどんなものが観客にウケるのかを予測できたのでしょうか?そんな事ある訳ないじゃないですか。黒澤明黒澤明という人間であって「映画そのもの」ではないのですから。

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たまたま映画撮影に才能があった一人の人間が「映画そのもの」になったわけではなく、「映画を撮影する経験を得て少し知識を得た」に過ぎないのです。スピルバーグは「ジュラシックパークになった」のではなくて「ジュラシックパークを撮影するという経験を得て知識を得た」に過ぎないし、ジョージ・ルーカスも「スターウォーズを撮影するという経験を得て知識を得た」に過ぎないんです。従ってスピルバーグが未来の恐竜映画について正確に予測できるわけではないし、ルーカスがジェダイとフォースの行く末についてフォース・マスターじみた予言ができるわけでもない。

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であれば、映画撮影はしたことないけど映画が好きな一般市民が映画を批評する事だって十分に成立する筈です。生まれて初めて映画を見た奴が映画を批評し始めたら確かにヤバいとは思いますが、足しげく映画館に通って色んな映画を見て、ツタヤでDVDを借りてきて色んな映像作品に目を通している現代人であれば「映画を観る事によって映画に対する経験知を得る」という事をしているので、「あの映画はつまらなかった」と批評する事も成立するんです。

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そう考えないと世の中窮屈です。
一般市民が政治批判するのはNG、アニメオタクがクソアニメを低評価にするのもNG、音楽経験の無いただの音楽ファンがミスチルの楽曲をけなすのもNGです。「批評」とか「評価」と考えうるものは何もかもNGです。先生が生徒の通信簿に「劣」とか「1」という数字を付けるのだってもちろんNG行為ですよ。

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そんな世界に生きていたいと思いますか。私は嫌です。